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HOME >異端・カルトのカルビニズム > |
カルビニズムは多くの理由からカルトです。 カルト的な行動の特徴の一つは、そのカルト集団自体に対する偶像崇拝的な強い願望(欲望)です。 このことは、特にカルビニズムに当てはまります。 長老派やバプテスト派の信者がみな、このカルビニズムのカルト的行動の泥沼にはまっているというわけではありません。 カルビニズムの教会に出席する人々の中には、そこがカルビニズムの教えだからという理由以外の理由で出席している人々も多くいます。 そういう人々は、カルビニズム自体に関しては、ほとんど重要視していません。 このカルト集団に捕らえられてしまっているカルビニストは、カルビニズムに献身している人々です。 カルビニストたちは、カルビニズムの『5ポイントの教え』に精通しており、それこそが"福音"だと思っている人々です。 |
●特徴1 第一に、他のどのカルト集団とも同じように、カルビニストたちは自分たち以外のどの神学体系も『偽りの福音』だと主張することを好みます。 特に、『救いの教理』についての彼らの考えには、それが当てはまります。 |
●特徴2 第二に、カルビニストたちは、昔のグノーシス主義者たちと非常によく似た信念を持っています。 グノーシス主義とは、キリスト教界で最初に異端の教えを説いたカルト的集団です。 グノーシス主義者たちは、『選びの者たち』というものを信じていました。 すなわち、神についての奥義的な知識を理解する"エリート"という者たちです。 グノーシス主義者たちと同様に、カルビニストたちも、『選びの者たち』だけがカルビニズムを受け入れて理解できるようになると信じています。 彼らだけがその知識を理解して受け入れることが可能な者たちだから、という理由でです。 彼らは第一コリント2・14をそのように解釈し、最終的にカルビニズムを受け入れない人はだれも、選ばれてなく、新生していない人であり、そのような人々はカルビニズムについてのこの奥義的知識は理解できない、と考えるのです。 |
●特徴3 第三に、カルビニズムがカルトである理由は、その数々の教義にこだわる人々が"カルビニズム"を"偶像"化しているからです。 もちろん、カルビニストは自分が偶像崇拝者であると認めはしないでしょう。 自分を偶像崇拝者であると認める偶像崇拝者がどれだけいるでしょうか? では、なぜ、カルビニストたちは偶像崇拝者たちなのでしょうか? もしあなたがだれか一人のカルビニストを注意深く観察し、彼の行いを観察すれば、彼が聖書のメッセージについて、その真の意味、意図されている意味をほとんど考慮していないことがわかるはずです。 彼が自らに理解することを許す唯一のメッセージは、カルビニズムのメッセージだけです。 聖書のどんな箇所も、最初に、カルビニストの"製粉機"にかけられるのです。 彼の教理に反するように見えるどんな箇所も、彼の体系にぴったり合うように手直し(再加工)されて解釈されるのです。 どんなカルト集団とも同様に、カルビニストはどんな状況でも自分の信念を変えようとはしません。 聖書のみことばのメッセージについても、そうです。 カルビニストは、自分の信念を聖書に一致させるのではなく、むしろ、聖書を自分の信念に一致させようとするのです。 彼は、聖書が本当は何を言っているかを理解しようとする代わりに、どうすればその箇所がカルビニズムの教えに強いインパクトを与えるかを自問するのです。 さらに彼は、その箇所で意図されているメッセージを誠実に理解しようとする代わりに、カルビニズムの教えに合う解釈を開発するのです。 こうして、どんな解釈も、その意図された意味を理解するべく調べられるのではなく、むしろ、カルビニズムの教えにぴったり合うようにされるのです。 カルビニストはこれらのことを行うゆえに、偶像崇拝者なのです。 偶像崇拝者とは、自分の"偶像"に仕えている者です。 カルビニストは、"カルビニズム"という"偶像"に仕えているのです。 |
●カルビニストの"気まぐれ"な聖書解釈 彼は、何よりも第一に自分の信仰体系に仕えており、聖書は自分の信仰体系と合致するように解釈されなければならないのです。 聖書のどんな解釈も、自分の偶像である自分の"神"の"気まぐれ"に従うのです。 彼の"神"とは、すなわち、カルビニズムです。 彼はどんな解釈をも行う前に、まず、カルビニズムと相談しなければならないのです。 彼の"神"であるカルビニズムに是認されない解釈は、絶対ダメだからです。 たとえば、ヨハネの福音書で、カルビニストたちは、
ところが、
ですから、彼らは『世』という同じ語(ギリシャ語コスモス)に、ある箇所と別の箇所で正反対の意味を与えているのです。 ちょうどこれと同じような事例がカルビニズムには数え切れないほど多くあります。 このようなカルトに捕らえられていない人々で、流動的な信仰体系を持っている人々もいます。 もし聖書の何らかの箇所が自分たちの現在の信念、彼の偶像に強い影響を及ぼすなら、ほとんどの人は聖書と一致するように自分の信念を変えることでしょう。 しかし、カルビニストはそうではありません。 彼は、ちょうど『エホバの証人』がするようなアプローチをするのです。
カルビニストもエホバの証人も、何よりも第一に彼らの信仰体系に仕えており、彼らを変えることになる聖書の箇所は全くありません。 自分の偶像である自分の信仰体系を脅かしそうになる聖書の何らかの箇所があれば、彼は幾日も徹夜してでも、カルビニズムにぴったり合うようにすることのできる解釈を考え出すのです。 そのような場合、彼は決して次のような自問はしません。
彼はそのような考えを考慮することは決してしません。 なぜなら、彼は神よりも自分の偶像に献身しているからです。 こうして彼は聖書の多くの箇所から何も学ぶことができないのです。 なぜなら、彼は、自分の"偶像"、自分の"神"であるカルビニズムが是認していないことには、決して耳を傾けないからです。 聖書を読む目的は、その箇所が何を言っているかを見出し、その意図されている意味に到達するためです。 その文脈、文法を理解することにより、また、受け入れられている客観的な解釈原則に従うことによってです。 ほとんどの人は、聖書の中にある数々の宝を発見するために聖書を読みます。 しかし、カルビニストは、そうではありません。 彼が聖書を利用するのは、自分の"偶像"を喜ばせること以外のどんなことのためでもありません。 |
◆カルビニストの『文脈』と『解釈手法』 カルビニストは、自分はどの節もそれぞれの『文脈』の中で解釈していて、『受け入れられている解釈手法』に従っていると主張するかもしれません。 しかし、実際は、彼の『文脈』とは、その聖書の箇所のことではなく、カルビニズムという体系自体のことです。 また、その受け入れられている唯一の『解釈手法』とは、自分の"神"であるカルビニズムを怒らせない解釈を開発することなのです。 他の数々のカルトと同様に、カルビニストたちも、聖書にある数々の概念を首尾一貫したものとして組み立てて、すべての断片が適切な場所にぴったり収まった全体像に到達しようとはしません。 むしろ、彼らは、自分たちに最も合うように見える数々の箇所を捕らえて、カルビニズムを高揚させないどんな箇所をも無視するか手直しをしています。 こうして彼らは聖書の多くの箇所を寄せ集めて、彼ら自身のために彼ら好みの信念体系を打ち立てています。 端的に言えば、彼らは聖書全体が伝えようとしている信仰体系を追求しているのではなく、彼ら独自の信念体系を創り出しているのです。 最終的に、彼らは、彼ら自身の"神"、すなわち、カルビニズムと呼ばれる偶像を創り出しているのです。 それは彼ら自身の創作物なのです。 カルビニズムを説明するものとして私がこれまで述べてきたことが厳しすぎると考える人々が多いかもしれません。 一時は私自身もそうでした。 |
けれども、非常に、非常に多くの時間をかけてカルビニストたちをよく調べ、観察してきた私の厳粛な結論は、 彼らが『神の三位一体』や『キリストの神性』を受け入れているからといって、 |
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→2.カルビニズムを糾弾する | |
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★OSAS・カルビニズムの正体 |
★地獄に行った偽クリスチャンたち |
偽りを語る人々・だまされる人々 |
《関連推奨記事》 |
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【推奨サイト】(英語)
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【推奨書籍】(英語) 著者ボブ・カークランド博士はこう述べています。
(アメリカで処刑された33人の男女[「ボストンの殉教者たち」(1659年〜1661年) ・「セイラム魔女裁判](1692年〜1693年) について詳述) |
【推奨動画】(英語) |
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