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《目次》
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■ジュネーブで大ぜいの人を処刑したカルヴァン 私は、一人の人間の性格は、その人物の神学に関係があるものと考えています。 なぜなら、人々は神のついての自分なりの概念に応じた振る舞いをするからです。 改革派神学の柱であるジャン・カルヴァンについて見ることにしましょう。
あの『専制君主』であり『殺人者』であったジャン・カルヴァンを、カルヴァン主義者たちは恥じてはいません。 彼はスイスのジュネーブの町を統治しましたが、その統治に関しては、ジュネーブの町のあらゆる生活の局面が、カルヴァンのポリシーによる影響を受けていました。 そのことが、次に挙げる引用からわかります。
彼の"制度"に対抗したり同意しないことは法律違反に等しいこととされ、大ぜいの人が処刑されました。 彼は絶対的な権力によって統治し、疫病を広めたという推定や、魔術を行ったという嫌疑、あるいは、彼に逆らったという理由で、市民を死に至らしめました。 カルヴァンの独裁的な支配に対し、ジュネーブの市民からの反対が激しくなっていきました。 1545年だけでも、魔術を行い、疫病を広めようとしたという罪状で、ジュネーブで23人が焼き殺されました。 そしてカルヴァンは事実上、どんな罪でも、それを一つの犯罪としました。 また彼は、教会戒規の執行のためにも、その社会的権力を利用することをためらいませんでした。 |
■ミシェル・セルヴェを焼き殺したカルヴァン この人物の性格についての一例は、彼がミシェル・セルヴェを殺した(1553年10月27日)ことです。
ミシェル・セルヴェは16世紀に生きていたクリスチャンでした。 彼はジャン・カルヴァンの怒りを買い、非合法の理由で彼と彼の仲間によって殺されました。 彼は異端のかどで告訴され、裁判で強行採決され、生きたまま木に掛けられて焼き殺されました。 ところが、そのような残虐行為が、カルヴァン主義者としてよく知られている人々により、幾世代にもわたって称賛されたのです。 |
■殺害を悔い改めなかったカルヴァン ミシェル・セルヴェの殺害に関し、ジャン・カルヴァンが自分は後悔してはいないと認めていることばを、以下にいくつか引用します。 ★この事件の7年前
★この事件の期間中 カルヴァンはまた、1553年8月20日付の手紙でファレルにこう書きました。場所は、彼がセルヴェを逮捕した所(ジュネーブ)です。
★この事件の後
(ところで、マルティン・ルターは異端者を死に至らしめることに反対であると記しました。 ですから、カルヴァンはルターをも殺害することを支持していたように見えます) セルヴェの事件に関するカルヴァンの言明の記録の中で最も強い言明の文書は、1561年にカルヴァンからマルキス・ペイトに宛てた手紙です。マルキスはのナバラ(スペイン)の国王の高位の侍従でした。 その手紙でカルヴァンは我慢できない言い方で、次のように書きました。
セルヴェが「イエス様は神の御子であられる」と確かに信じていたことを認識してください。彼が生きたまま焼かれていた時の彼の最後のことばは、こうでした。
それなのに、現代のカルヴァン主義者たちは、このことに関して、こうコメントしています。
カルビニストたちにとっては、イエス様を神の御子と呼ぶことは異端であるようです!! また、この事件に関する、あるカルビニストのことばを引用します。 彼らはセルヴェの死をセルヴェのせいにしています。
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■聖書が告げていること ジャン・カルヴァンおよび彼の仲間たちは殺人罪を犯したのです。 聖書に、こう書かれています。
まさに、その通りなのです。 |
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