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■『フレデリコ・アウグスタヌス写本』:CFA
「シナイ写本」を発見したと自分から主張した人物は、コンスタンティン・ティッシェンドルフでした。 《ティッシェンドルフ》 (この年、彼はシナイ半島にある聖カタリナ修道院を訪れ、(将来の)シナイ写本の一部を持ち帰っていました) 彼は、それをライプチヒ大学(ドイツ)の図書館に持って行くことにしました。 彼はそれを贈り物として、自分の旅費を負担した人でもある、ザクセン王国(ドイツ)の王、フリードリヒ・アウグスト2世(1797〜1854年)に献げました。 それは、この王にちなんで『フレデリコ・アウグスタヌス写本』(CFA)と命名されました。 ここにあるのは、このCFAの最初のページです。第一歴代誌11・22から始まっています。 このCFAの中央部にある一つのページは、トビト書(外典)の1・7〜2・2です。 この分割部分(シナイ写本には複数の分割部分[セクション]があります)の最後のページは、哀歌2・20で終わっています。
1846年、ティッシェンドルフは、このCFA(43枚の皮紙、172ページ)の中にあるものを公開しました。 その後、なぜか1859年、ティッシェンドルフはまた、シナイ半島にある聖カタリナ修道院を訪れました。 旅費の負担者は、ロシア皇帝のアレクサンダー二世でした。 そしてロシア政府の援助により、ティッシェンドルフは自分が『シナイ写本』と呼ぶものを持ち帰りました。 その後、ロシアの後ろ盾により、彼はその本文を転写し、1862年、ティッシェンドルフは、私たちが現在『シナイ写本』と呼んでいるものを発表しました。 ■薄黒いシナイ写本! ここで、少し不可思議なことがあります。 2014年スティーブン・アヴェリー氏が私に、このCFAを見て欲しいと言いました。すなわち、ティッシェンドルフがフリードリヒ王に献げたものの一部です。 それで私はそれらのページをよく見ました。繰り返し、何時間もかけて見ました。 私は、ザクセン王国の王のために、だれかがこのCFAを白くしたのかどうかを知ろうと見ていたのです。 それがどんなに白いかは、ご覧の通りです。 けれども、私が見出したのは、それよりはるかに不思議なことでした。 CFA以外のシナイ写本は、何者かが薄黒くしたのです! これを比べて見てください。 これは、私の本にあるコーヒーによる染みを思い起こさせるものです。 何者かがこれらのページを薄黒くしたのは、なぜでしょうか? ■ロシア人主教の証言 ティッシェンドルフがこの修道院を訪れた年の後、二人の別の人物が、この修道院を訪れました。 この写本を見るためにです。 それは、ティッシェンドルフがあのCFAを持ち去った後のことです。 そして、彼らのうちの一人は、そのことについて書き記しました。 ロシア人の主教ポリフィリ・ウスペンスキーです。
1845年、彼は聖カタリナ修道院を訪れました。 ティッシェンドルフが訪れた年の翌年です。 ウスペンスキー主教は、「それはすべて白かった」と述べました!
ところが、ティッシェンドルフが(1859年に)入手した後のシナイ写本の、たとえばこのマタイの福音書の箇所を見てください。 コーヒーの染みや紅茶の染みなどのように見えます。私には、まやかし物の臭いがします。 スティーブン氏は、1800年代に存在した偽造者たちがどうやって書物を古いもののように見せかけたかについて調べました。 彼らは何を使ったと思いますか? コーヒー、紅茶、そういうようなものです! 貴重で、ユリのように真っ白な古代の聖書を、何者かが取り上げ、それを、古くて腐敗しているように見せかけたのは、なせでしょうか? しかも、表紙はないのです。 その表紙を見た人は今まで一人もなく、現代でもいません。 そして、ティッシェンドルフがそれを入手した時以来、いないのです!
(https://www.youtube.com/watch?v=OVjOhDJ5HKoより)
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●歴史Q 偽造された写本
1 偽造写本の"出現" 2 白いシナイ写本・ 3 だれがシナイ写本を 4 色付けされたシナイ写本 5 シナイ写本の意図的な削除 6 偽造写本『2427』の正体 7 ティッシェンドルフが持ち去った 8 ティッシェンドルフに抜き取られた 9 シナイ写本・バチカン写本_ 10 バチカン写本・シナイ写本の構成 11 外典を含むバチカン写本・シナイ写本 12 マルコ16・9〜20が無い写本 13 2写本の検証1 14 2写本の検証2 |
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聖書の歴史V 偽造写本から"ねつ造"された |
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