教会が東方(ギリシャ語)と西方(ラテン語)に分かれると、東方教会ではギリシャ語のTR(テクストゥス・レセプトゥス)が標準になりました。
(その結果、ギリシャ正教会の公式本文として採用されていました)
しかし、西方教会ではヒエロニムスの「ラテン語ウルガタ聖書」を固持しました。
第5世紀〜の『聖書』
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《改ざん聖書》
■ヒエロニムス作成の
「ラテン語ウルガタ聖書」(405年)
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★西方教会:ヒエロニムス作成の
「ラテン語ウルガタ聖書」を固持
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その結果、東方教会と西方教会の間で進展していった憎悪は、単なる教理上の議論を越えたものとなっていきました。
いずれの側も、相手の側が用いている写本は腐敗している(改ざんされている)と確信するようになりました。
つまり、それらの読み方が必ずしも同じではなかったため、東方のギリシャ圏の人々はその『ラテン語ウルガタ聖書』に不信感を抱くようになり、西方のラテン圏の人々も同じく、ギリシャ圏の人々が彼らの本文を改ざんしたのだと確信するようになりました。
どちらの聖書も、それぞれの社会では権威あるものであり続け、両者は、自分たちの聖書こそ真の最初からの聖なる本文であると主張しました。
こうして二つの別個の『聖なる書」が出現したのです。
● 東西教会間の反目
この憎悪は五世紀まで続き、いっそう高まっていきました。
五世紀になると、ローマ教皇は、ギリシャ語およびギリシャ語の文書が西方ヨーロッパに流入するのを制限しました。(注1)
千年近くの間(紀元約476年〜1453年)、東方の過去のすべての宝物(その記録、歴史、考古学、文学、科学など)は、西方には翻訳されないまま、そして利用されないままでした。
ギリシャ語はヨーロッパ西部では外国語となりました。なぜなら、聖職者たちがギリシャ語の研究は悪魔の研究だと宣言し、それを促進した人々をみな迫害したからです。(注2)
この分離と分裂と孤立の時期、この二つの社会(東方と西方)のそれぞれの地域で、聖書は教会人(修道士、司祭、主教)たちにより、教会独自の所有物として解釈され、コピーされ、配布されました。
そして、どちらの側も、自分たちこそ『聖なる本文』に取り組んでいると確信していたのです。
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(注1)Wilkinson著書 pp.44-45
(注2)Froude,"Life and Letters of Erasmus" ,pp.74,187,294,256
《出典 : Floyd Nolen Jones,"Which Version Is The Bible?"[2006年] 》
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