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■エラスムスによる五つの版のTR 1516年から1535年までの間、エラスムスはギリシャ語新約聖書(TR)の五つの版を発行しました。
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■エラスムスによって用いられたギリシャ語写本 1515年7月にエラスムスが作業を始めるべくベーゼルに来た時、彼が用いることのできる状態にある五つのギリシャ語新約聖書写本を見出しました。それらは現在、次の番号で示されるものです。
福音書と使徒たちの行い、および手紙については、彼はおもに2と2apを用いました。(注2) エラスムスは彼のTRを準備する際、これら五つの写本以外の写本を用いたでしょうか? 彼がそのようにしたことを示すものが、いくつかあります。 W・シュワルツ(1955年)によれば、エラスムスが『エラスムス自身によるラテン語訳』を作ったのは、1505年から1506年にかけてのことでした。 彼の友人のジョン・コレット(彼は聖パウロ教会の監督になっていました)は、そのためにエラスムスに二つのラテン語写本を貸しました。 ただし、五つの写本以外に彼が用いたギリシャ語写本については何も知られていません。(注3) しかし、彼は何らかのギリシャ語写本を用いて、それらの写本に関するメモを取ったにちがいありません。 ですから、おそらく彼はそれらのメモを、彼の訳文および新約聖書本文に関する彼のコメントといっしょにベーゼルに持ち帰ったはずです。 エラスムスはいたるところを巡って数々の写本を捜したことも、また、可能であれば、だれからもそういう写本を借りたことも、よく知られています。 したがって、TRは、エラスムスがベーゼルで見出した写本を主要な土台としてはいても、彼が入手できたそれ以外の写本からの読み方も含まれていたのです。 それは、神の摂理の中で利用可能とされていた数々の写本に基づくものであったため、それは『共通の信仰』と合致していたのです。 |
■エラスムスの脚注…『相違する読み方』『本文批評の諸問題』についての彼の知識 エラスムスはヒエロニムスの著作や教会教父たちの著作の研究を通して、新約聖書本文の数々の相違のある読み方に関して非常によく知るようになりました。 今日の学者たちに知られているほとんどすべての重要な相違ある読み方は、460年以上も前にエラスムスにすでに知られており、彼がギリシャ語新約聖書の数々の版の本文の後に記した『脚注』(それは前もって用意されていたものでした)の中で論じられていました。 たとえば、エラスムスは次のような問題の箇所を取り扱いました。
彼は、ヒエロニムスや他の教会教父たちによって報告された疑問点について述べるだけでなく、彼自身の反論も加えました。 ただし、彼はこれら数々の問題をいくらか慎重に論じ、彼自身はいつでも、『世論のコンセンサス(一致した意見)に、特に教会の権威に』喜んで服することを宣言しました。(注4) 手短に言えば、彼は、新約聖書の正典についての問題を再開した当初は、自分が『共通の信仰』に反して進んでいたことを認識していたようです。 ところで、エラスムスが彼の『注釈』に関して用心深かったのであれば、彼の『本文』に関してはなおさら、そうでした。 というのも、その『本文』こそまさに、読者の目をただちに引くことであるからです。 したがって、ギリシャ語新約聖書本文の編集においては特に、エラスムスは、現在ある聖書本文に対する『共通の信仰』によって導かれたのです。 そして、この共通の信仰の背後にあったのが、神の統制しておられる摂理でした。 そのため、エラスムスのヒューマニズム的(人間中心的)な傾向は、彼が作り出したTRの中には現れていないのです。 彼自身は信仰の人としてきわだっていたわけではありませんが、この本文に関する彼の編集作業において、彼は他の人々の信仰によって摂理的に影響を受け、導かれたのです。 (→●『エラスムスらを導いた共通の信仰』参照) 彼のヒューマニズム的(人間中心的)な傾向にもかかわらず、『ギリシャ語新約聖書本文』を『印刷物』とさせるべく、エラスムスは明らかに神に用いられたのです。 ちょうど、マルティン・ルターが少なくとも初めは、ヘブル書、ヤコブ書、ユダ書およびヨハネの黙示などに関してエラスムスの抱いていた疑問と同じ疑問を抱いていたにもかかわらず、プロテスタントの宗教改革を導入させるべく、神に用いられたように、です。(注5) …………………………………………… (注1)The first, 2nd, and 4th editions of Erasmus' New Testament are accessible at the University of Chicago. (注2)Plain Introduction, Scrivener, vol. 2, pp. 182-84. (注3) "Principles and Problems of Translation, Schwarz, p. 139. (注4) "nisi me consensus orbis alio vocaret, praecipue vero auctoritas Ecclesiae." Note on Rev. 22:20. (注5)Works of Martin Luther, Philadelphia: Muhlenberg Press, 1932, vol. 6, pp. 476-89. (Prefaces to Hebrews, James, Jude and Revelation). |
《出典 : The King James Version Defended 第八章 エドワード・F・ヒルズ著》
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●歴史CX 《神の摂理とTR》
1 聖書に対する二つの手法 2 現代主義の始まり…聖書の奇跡の否定 3 自然主義的本文批評を広めた人々 4 神の啓示が出発点です!! 5 『聖書を信じる学び』の3原則 6 一貫性のあるクリスチャンの『手法』 7 古代聖書と神の摂理 8 TRについての三つの見解 9 新約聖書本文の保持と『共通の信仰』 10 神に用いられたエラスムス 11 TRと伝統的本文の相違箇所 12 神の摂理を心に留めない批判者たち 13 神の摂理の継続・神が確証されたTR |
●さらに深い理解のために(英語)… ■The King James Version Defended 第八章 2c,d,e(エドワード・F・ヒルズ博士著) ■The history of naturalistic textual criticism(自然主義の聖書本文批評学の歴史) ■《さらに深く学ぶためのリンク集》 |
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聖書の歴史V 偽造写本から"ねつ造"された |
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