●異教の教えのための改ざん
エキュメニカル運動は、諸宗教を受容して、ローマ教皇を頂点とする「一つの世界宗教」を進展させることを目指しています。
それらの宗教団体の教理は多種多様であり、真の福音信仰者たちからすれば、全く受け入れことのできない教えや主義が多くあります。
WH/UBS/NA本文に基づく聖書には、さまざまな宗教や団体が採用可能となるような改ざんが見られます。
★使徒6・3、8・18
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- 「それで、兄弟たち。良い証言を受けている人たちで、聖霊と知恵に満ちている七人の男たちを、あなたがたの中から捜し出しなさい。…
シモンは、使徒たちの手が置かれることにより聖霊が与えられているのを見ると…」(TR 新約聖書)
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- 「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。…
シモンは、使徒たちが手を置くことで御霊が与えられるのを見て…」(新改訳 2017)
- 「それで、兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。…
シモンは、使徒たちが手を置くことで、霊が与えられるのを見、…」(聖書協会 新共同訳)
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「聖霊」が「御霊」に『置き換え』られています。
「聖霊」であれば、聖書に記されている第三位格の神に限定されますが、「御霊」や「霊」であれば、さまざまな宗教や団体の信奉する「霊」として適用が可能となります。
第三位格の神である「聖霊」に限定させまいとする改ざんです。
★エペソ3・14、15
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- 「私は、私たちの主なるイエス・キリストの御父に向かって、私のひざをかがめています」(TR 新約聖書)
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- 「私は膝をかがめて、…御父の前に祈ります」(新改訳 2017)
- 「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります」(聖書協会 新共同訳)
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「私たちの主なるイエス・キリストの」が『削除』されています。
ローマ・カトリック教会の『教皇』("Pope")という用語は"papa"[パパ](父)を意味し、『神父』も英語ではFather(父)です。
単なる「父」は、どんな宗教や団体の「父」"Father"にも当てはめて使うことが可能です。
父祖(先祖)崇拝に適用することも可能です。
一方、『TR 新約聖書』は、礼拝の対象は『私たちの主なるイエス・キリストの』御父であると限定しています。
改ざん本文は、それを他の宗教でも使用できるように変えています。
★ガラテヤ4・7
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- 「それで、あなたはもはや奴隷ではなく、子なのです。
そして、子であるなら、キリストを通して神の相続人でもあるのです」(TR 新約聖書)
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- 「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。
子であれば、神による相続人です」(新改訳 2017)
- 「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。
子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(聖書協会 新共同訳)
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「キリストを通して」が『削除』されています。
「キリストを通して」こそ、聖徒たちを「神の相続人」とすることが可能なのです。
ところが、この非常に重要な語句が消されており、他の宗教でも利用が可能な文に変えられています。
★エペソ3・9
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- 「万物をイエス・キリストを通して創造された神」(TR 新約聖書)
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- 「万物を創造した神」(新改訳 2017)
- 「すべてのものをお造りになった神」(聖書協会 新共同訳)
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これも、「イエス・キリストを通して」が『削除』されています。
これも非常に重要な教えをはっきり述べている非常に重要な語句であるのに、WH/UBS/NA本文に基づく聖書は、この真実を知ることができないようにされています。
★ピリピ4・13
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- 「私は、私を強くしてくださっているキリストにあって、すべてのことに強いのです」(TR 新約聖書)
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- 「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」(新改訳 2017)
- 「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(聖書協会 新共同訳)
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「キリスト」が『削除』されています。
「キリストにあって」こそ可能なことであるのに、この肝心な語句が消されています。
★第一コリント16・22
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- 「もし、だれかが主なるイエス・キリストを親しく愛していないなら、その者は呪われたものとなるように」(TR 新約聖書)
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- 「主を愛さない者はみな、のろわれよ」(新改訳 2017)
- 「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」(聖書協会 新共同訳)
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「イエス・キリスト」が『削除』されています。
どんな宗教団体にも「主」とされる至高の存在者あるいは礼拝対象者がいるはずです。
この節がそのような存在者に適用されるなら、非常に危険なことばとなり、悪用される(されている)可能性があります。
★コロサイ3・13
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- 「キリストもあなたがたに容赦してくださったように、あなたがたもそのようにしなさい」(TR 新約聖書)
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- 「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(新改訳 2017)
- 「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(聖書協会 新共同訳)
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「キリスト」が「主」に『置き換え』られています。
これも同様に、さまざまな宗教団体の「主」とされる存在者に適用され得る文に変えられています。
★使徒22・16
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- 「立ち上がってバプテスマを受け、主の御名を呼んであなたの罪を洗い落としなさい」(TR 新約聖書)
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- 「立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい」(新改訳 2017)
「立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい」(聖書協会 新共同訳)
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「主」が「その方」に『置き換え』られています。
「だれでも主の御名を呼び求める人はみな救われる」という主旨のことばが、ヨエル書2・32、使徒2・21、ローマ10・13にも記されています。
それなのに、この使徒22・16では、「主」を「その方」に『置き換え』ることにより、適用したいと思う者に適用することが可能となります。
ローマ・カトリック教徒たちは、亡くなった多くの聖徒たちに呼びかけています。
そういう人々にとっては、この改ざんが好都合であるはずです。
しかし、聖書は、死者に向かって呼びかける行為を禁じているだけでなく、「イエス・キリストの御名」(使徒4・10)以外のどんな名に呼びかけても、救いはないと教えています。
「別の何によっても救いはありません。
なぜなら、人間の間に与えられている名で、それによって私たちが救われるべき名として、ほかの名など天の下にないからです」(使徒4・12)
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使徒22・16の箇所の改ざんされた読み方は、他の宗教や団体でもそれぞれの都合に合わせて利用できるのです。
★第一ヨハネ4・19
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- 「私たちは彼を愛しています。
彼が最初に私たちを愛してくださったからです」(TR 新約聖書)
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- 「私たちは愛しています。
神がまず私たちを愛してくださったからです」(新改訳 2017)
- 「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(聖書協会 新共同訳)
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「彼を」が『削除』されています。
使徒ヨハネがこの節で教えているのは、神が(神のアガペーの愛によって)私たちを愛してくださったゆえに、救われた聖徒たちも神を(神のアガペーの愛によって)愛していること、その相互の愛(ギリシャ語「アガペー」)のことです。
もちろん、「生まれながらの人間的な愛」によってではなく、「神のアガペーの愛」によってです。
「というのも、私たちに与えられた聖霊を通して、神の愛が私たちの心の中に注がれているからです」(ヨハネ5・5)
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ですから、この第一ヨハネ4・19は、救われた聖徒たちは、自分の内にある神の愛によって神を愛していると教えているのです。
しかし、キリスト不信者たちは、「神の愛によって愛する」ことはできません。
それは完全にあり得ないことです。
イエス様は不信者たちについて、こう言われました。
「しかし、私があなたがた(不信者たち)について知ってきたのは、あなたがたがそれぞれ自分の内に神の愛を持ってはいないことです」(ヨハネ5・42)
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不信者たちは神のアガペーの愛によって神から愛されてはいますが、自分は神の愛(アガペー)を持っていないゆえ、神のアガペーの愛によっては、だれをも愛することはできません。
彼らが持っているのは、「生まれながらの人間的な愛」だけであるため、彼らは、「私たちは生まれながらの人間的な愛によって愛します」としか言えません。
この「彼を」という語を削除するなら、目的語がなく、意味は曖昧になります。
むしろ、「私たちは愛しています、私たちには愛があります、私たちは愛することができます」と、だれでも言うことができるかのような文となっています。
その結果、本来の意味、すなわち、神と救われた聖徒たちとの間の相互愛のことは曇らされています。
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