●クリスチャンにとって重要なみことばの削除・置き換え・付加
★マルコ10・21
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- 「そして、さあ、十字架を取り上げて私について来なさい」(TR 新約聖書)
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- 「そのうえで、わたしに従って来なさい」(新改訳 2017)
- 「それから、わたしに従いなさい」(聖書協会 新共同訳)
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「十字架を取り上げて」が『削除』されています。
イエス様は、ご自分がこれから受けようとしていた十字架刑と関連させて、このことばを語られたと考えられます。
けれども、この語句がなければ、イエス様の深い意図が読者に全く伝わりません。
イエス・キリストの十字架刑を読者に思い起こさせるこの語句は、キリスト不信者たちにとって、好ましくない、不都合なことばであるはずです。
★ルカ4・4
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- 「するとイエス様は彼に向かって答えて言われた。
『こう書かれている。
「人は、パンだけによって生きるのではなく、神のあらゆることばによってである」』」(TR 新約聖書)
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- 「イエスは悪魔に答えられた。
『「人はパンだけで生きるのではない」と書いてある。』」(新改訳 2017) - 「イエスは、『「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある』とお答えになった」(聖書協会 新共同訳)
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「神のあらゆることばによってである」が『削除』されています。
イエス様が語られた重要語句が、ここでも消し去られています。
クリスチャン生活において、神のことばを読み、それによって生きることは、必須のことであり、このうえなく重要なことです。
それにもかかわらず、この語句を消し去ることは、人々が神のことばを読んで霊的に成長することを望まないキリスト不信者たちだけができることではないでしょうか?
★ローマ8・1
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- 「したがって、キリスト・イエスの内にあって、肉にしたがって歩まず御霊にしたがって歩んでいる人たちに対しては、今や、一つの有罪判決もないのです」(TR 新約聖書)
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- 「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(新改訳 2017)
- 「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(聖書協会 新共同訳)
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「肉にしたがって歩まず御霊にしたがって歩んでいる」が『削除』されています。
「クリスチャン」と自称する人がみな、神の目に「一つの有罪判決もない」聖徒であるわけではありません。
また、洗礼を受けたから、地域教会の礼拝に出席しているから、といって、それだけで聖徒であるわけでもありません。
そのため、「肉にしたがって」歩んでいる「クリスチャン」が「有罪」の状態にいる場合でも、この語句の削除により、そのような人に"偽りの安心感"を与えている可能性があります。
けれども、聖書は、肉にしたがって歩まず御霊にしたがって歩んでいる聖徒たちに対してのみ、「一つの有罪判決もない」と教えています。
WH/UBS/NA本文に基づく聖書は、この重要な条件を消し去っています。
UBS本文第四版の脚注には、この箇所の語句を削除した人物としてマルキオンとオリゲネスの名前が挙げられています。
この二人は聖書の改ざんを行った初期のグノーシス派の異端者たちでした。
つまり、UBS本文の編集者たちも、それに基づく『新改訳 2017』などの聖書も、そういう異端者たちの改ざん本文を採択しており、読者に読ませているのです。
★第一テサロニケ1・1
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- 「パウロとシルワノとテモテから、父なる神と主なるイエス・キリストにあるテサロニケ人たちの教会へ。
私たちの父なる神と主なるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように」(TR 新約聖書)
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- 「パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。
恵みと平安があなたがたにありますように」(新改訳 2017) - 「パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。
恵みと平和が、あなたがたにあるように」(聖書協会 新共同訳)
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「私たちの父なる神と主なるイエス・キリストから」が『削除』されています。
これらの語句が『削除』されることにより、パウロの個人的あいさつのことばのようにも見えます。
けれども、「恵みと平安」の源は私たちの父なる神と主なるイエス・キリストであると聖書ははっきり教えています。
これらの語を読むたびに、聖徒たちは父なる神と主なるイエス・キリストへの感謝を覚えることでしょう。
他方、『削除』された本文の場合は、この箇所を読むたびにそのようなことに思いを馳せることは、まずないでしょう。
★第一コリント1・21
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- 「神は、信じる人々を宣教の愚かさを通して救うことをよしとされたからです」(TR 新約聖書)
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- 「神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです」(新改訳 2017)
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「ことば」が『付加』されています。
神が福音の宣教を通して人々をお救いになるというこの方法は、世の人々にとっては愚かなことのように見えるかもしれません。
けれども、神はそのようにして、信じる人々を救うことを「よしとされた」のです。
23節に、「私たちは十字架に付けられたキリストを宣べ伝えている」と書かれている通りです。
聖書は福音の「宣教」を「愚かさ」と呼んでいて、福音のメッセージを「愚かさ」と呼んではいません。
「なぜなら、私はキリストの福音を恥としてはいないからです。
なぜなら、それは、ユダヤ人を初めとしてギリシャ人にも、信じているどの人にとっても、救いに至らせる神の御力であるからです」(ローマ1・16)
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「キリストの福音」は、人々を救いに至らせることのできる「神の御力」です。
改ざん本文は、この尊い福音メッセージである「宣教のことば」を「愚かなもの」と呼んでいます。
神のことばに対する侮蔑の表現ともなっています。
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